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2019年10月15日 (火)

(増補版)659E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年11月~1896年12月)

題:(増補版)659E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年11月~1896年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・あくまでも、正しいことを教えてあげねばな
  らない!
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
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1896年11月21日、九州鉄道の松橋駅~八代駅間が開通し、
 門司駅~八代駅間が全通した。
  九州鉄道は・・
  1888年に、設立された私鉄。
  1887年、松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ門、渋谷清
   六、白木為直、嘉悦氏房の6名が、会社設立発起者
   総代となって、福岡・熊本・佐賀の県令へ呼びかけ
   て創立された。
  1888年、翌年、政府から設立が認可された。
   初代社長:高橋新吉が就任した。
  1889年に、初めての路線が開通する。
   これは、博多駅~千歳川仮停車場間で、後に、鹿児
   島本線の一部となる。
  1907年7月1日、国有化される。
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1896年11月23日、樋口一葉が、肺結核で亡くなった(24歳)
  非常に惜しい才能だった。
  樋口一葉は、一瞬の素晴らしい輝きを発した女性であ
 った・・しかし、惜しくも24歳という若さで亡くなった。
  日本には、世界で最初に長編小説を書いた偉人の紫式
 部(生誕は970年頃)も居るが、この人も女性である。
  古い昔から男女平等だった日本で、高度な教育を受け、
 高貴な教養を身に付けていた女性だった。
  日本は昔から女性に優しい国だった。
  この樋口一葉も小説家で、東京に生まれ・・中島歌子
 に歌や古典を学び、また、半井桃水に小説を学んだ。
  生活に苦しみながらも、秀作の「たけくらべ」「にご
 りえ」「十三夜」などといった作品を瞬く間に発表し、
 秀でた才能を輝かせた・・文壇からは絶賛された。
  しかし、わずか1年半の間にこれらの作品を世に出した
 が、24歳6ヶ月の若さで没した。
  没後に発表された「一葉日記」も高い評価を受けた。
  西洋では卑劣な女性差別がなされていたこの時代だっ
 た・・一例を挙げれば、イギリスでは「女性画家の絵は
 美術館で展示しない、拒否することをしていた」。
  今でも、国連でSDGsで「男女平等」が叫ばれてい
 るが、今でもこの様な運動をしなければならない男女差
 別が残る世界である。
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1896年11月25日、神戸で、日本初の映画の一般公開が開始
 された。
  相生町の鉄砲火薬商の高橋信治が、神戸花隈の神港倶
 楽部で上映した。
  「米国大博士エジソン氏新発明電気作用写真活動機械
 キネトスコープ」を輸入し、上映した。
  スクリーンに映写されるタイプではなく、1人ずつ覗
 き込んで見るタイプだった。
  1896年11月25日から12月1日まで開催した。
  日本の映画の日が、12月28日から12月1日に変更された
 のは、この日付に因むためと言われる。
  ちなみに、フランスのリュミエール兄弟が発明したス
 クリーン式の「シネマトグラフ」は、1897年、大阪の南
 地演舞場や、京都で披露されている。
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1896年11月28日、朝鮮の旧臣らが、李氏朝鮮の第26代王の
 高宗に還宮請願計画(未遂)(11月21日説あり)
  高宗が、策略の言葉にだまされて、ロシア公使館に軟
 禁されてしまったが(露館播遷、1896年2月11日、親露派
 のクーデターと言える・・この時、開化派は暗殺され一
 掃されてしまった)・・
  そして、この様な状況となり、朝鮮は国としての自主
 性を持てない状態となった(ロシアは、この機会に種々
 の利権を獲得する行為をして行く・・また、欧米も尻馬
 に乗って利権獲得に走る)
  この様に朝鮮国王がロシア公使館に居るという不正常
 な状態を終わらせようとする試みが、朝鮮の旧臣らから
 なされた。
  李範晋・李学均・李允用・李完用らは、高宗を奪い
 金弘集総理らを殺害しようとした反クーデターを計画し
 た(露館播遷のクーデターに対するクーデター)
  しかし、親衛隊大隊長の李軫鎬の内通によって、失敗
 に終わった。
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1896年11月、東海道本線の旧線上にあった深谷駅~長浜間
 の運転が休止され、深谷駅が閉鎖された。
  経緯・・
  1883年5月1日、関ケ原駅~深谷駅~長浜駅間が開業し
   た。
    この時の東海道線は、関が原から長浜に向かって
   運行していた・・深谷駅はその路線上にあった。
  1889年7月1日、この旧東海道線が途中から分岐して、
   長岡(現:近江長岡)から米原を経由して馬場(現:
   膳所)に至る延長線が開業した。
  1891年1月12日、分岐点に貨物駅として深谷駅が開業し
   た。
    そして、深谷駅~長浜駅間が貨物線として運行が
   再開された。
    しかし、関が原駅~深谷駅間は急勾配が連続し、
   かつ、冬季の積雪も多いという難所だった・・
   そのため深谷駅は、1896年11月に閉鎖された・・
  1899年10月15日、関が原駅~柏原駅~長岡駅間の勾配
   を緩和した新線が建設され、本線が変更された・・
   その関ヶ原駅~柏原駅~長岡駅間の新線が開業した。
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1896年11月、函館商業会議所の会頭・平出喜三郎が、北海
 道庁長官を通じて函館駅~小樽駅間の鉄道を至急に建設
 してもらいたいと建議した。
  今、政府は、この逆の、北海道の路線を、採算が合わ
 ないと「どんどん廃止している」が、これでは、北海道
 がどんどんじり貧となり寂(さび)れるばかりになると
 いう政策である。
  経済的収支よりも、この時の様に、国土建設の視点を
 持たなければならない・・明治政府より劣った政策を進
 めているという状況にある・・
.
1896年11月、鉄道の広軌道論争
  鉄道の線路幅を広げるべきだという「広軌改築論」が
 盛んに論議された。
  東京商業会議所が、逓信大臣に対し・・
  「政府ハ此際軌道調査会議ナルモノヲ設置シ朝野ノ学
 識経験ニ富ム者ヲ選抜シテ委員ヲ組織シ此等委員ヲシテ
 充分軌道ノ得失ヲ調査セシメ我国今日ノ鉄道ニ対シ広軌
 道ノ制ヲ施行スルノ方法確立スルニ於テハ速ニ之ヲ決行
 セフレンコトヲ望ム」と建議した。
  輸送力の拡張には、車輛の増加、停車場の増置、複線
 の敷設なども考えられるが・・
  これらの方法では、「充分運搬力ヲ強大ナラシムルノ
 効果」をもたらすことができるかどうかという懸念があ
 る。
  鉄道機関の「一大改良」をはかるためには、「現行狭
 軌道ノ制ヲ廃シテ広軌道ノ制ヲ採用スルノ得失如何」を
 検討しなければならない。
  なぜならば、「広軌道ハ狭軌道ニ比シテ列車ノ容量ト
 速度」において優れており・・
  「貨物ノ運輸上大ニ時間ト費用トヲ節シ得ルノ利益」
 がある。
  この頃、イギリスは平均速度100㎞/時間だったが、日
 本は、1906年に登場した「最急行」でさえ、平均速度は
 40㎞/時間だった。
  日本にとって100㎞/時間という速度は、出したことの
 ない世界だった。
  因みに、現在の東海道新幹線の営業最高速度は285㎞/
 時間であり、実際の営業速度は217㎞/時間で、今は、鉄
 道王国の日本となっているが・・
  1910年、鉄道院は、東海道本線・山陽本線などの主要
 路線を標準軌(狭軌からの広軌化)に改築する方針を決
 定した・・しかし・・
  原敬(政友会)が、鉄道員総裁に就任して、政友会の
 主張である「地方の鉄道整備を優先すべきだ」になって
 しまった・・話は潰(つぶ)れ、改軌計画は中止となっ
 た。
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1896年12月3日、貨車運用報告手続を制定した。
  (鉄運乙第13600号、12月5日施行)
.
  (今日の言葉)
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  題:韓国の常識ある知識人が、当然の行為である「嘘の韓国の反日論理」を批判し始めた。
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1896年2月10日、ロシア軍が朝鮮王宮に突入した。
  ロシア兵150名、107名の水兵、20名の食料担当兵。
  大砲一門を漢城に搬入して据えた。
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1896年2月11日、露館播遷
  洗脳された宮女の金明載より「各大臣等日本兵が密か
 に国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。
  速かに露館(ロシア公使館)に播遷し回避されたし」
 の旨の策略の書状が高宗に届けられた。
  慌(あわ)てて高宗と世子(純宗)は宮女用のかごに
 乗って、ロシア公使館へと連れ込まれた。
  親露的な政治を取らざるを得ない状況に追い込まれた。
  その結果、不平等条約を結ばされて、治外法権となり、
 また、様々な権益、鉱山の採掘権と森林伐採権、鉄道の
 施設権などを奪われた・・ロシアの影響下の半植民地状
 態となった。
  この機に乗じて、ロシア以外にも、欧米へも売却され
 て、李氏朝鮮は、欧米の草刈り場ともなった。
.
1896年3月27日、アメリカが朝鮮の利権を獲得する。
  アメリカが、雲山の金鉱採掘権、 京仁線敷設権、 漢
 城の電灯・電話・電車の敷設権を取得した。
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1896年4月22日、ロシアが朝鮮の利権を獲得する。
  ロシアが、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得した。
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1896年5月14日、小村・ウェーバー覚書
  朝鮮の状況を見かねた日本は、ロシアと話し合いを開
 始して、覚書を交わした。
  ソウルにおいて、日本側は小村寿太郎、ロシア側 はK.
 I.ウェーバーの両公使によって話し合われ調印された・・
 朝鮮問題に関する日露間の覚え書だった。
  ロシア公使館にいる朝鮮国王の還宮を実現するよう・・
 また、両国軍隊の駐屯定員なども決められた。
.
1896年6月12日、ロシアが朝鮮の利権を獲得した。
  ロシアが、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨361元)
 租借契約を取得した。
.
1896年7月、フランスが朝鮮の利権を獲得した。
  フランスは、京義線敷設権を取得した。
.
1896年9月、ロシアが朝鮮の利権を獲得した。
  ロシアが、豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島・
 茂山の森林伐採権を取得した。
     ・
     ・
1946年、RAA(特殊慰安施設協会、アメリカの要請で作
 られた慰安所)がある時は、強姦・婦女暴行が、1日平均
 40件であった・・が・・
  RAAが無くなった1946年前半の強姦・婦女暴行数は、
 1日平均330件と『8倍以上に急増した』・・元の状態に
 戻った・・
  あまりに多い事件数に、占領軍は、『新聞報道をする
 な』と報道管制の口封じの命令を出した。
  例えば、病院が、銃を持ったアメリカ兵の集団に襲わ
 れ、看護婦の方々や妊婦の方々が強姦された・・等々が
 多数あり、このような事例が続いた。
.
1950年2月14日、ソ連が中華人民共和国と同盟条約を締結し、
 条文で日本を仮想敵国と名指しした。
  これは、「中ソ友好同盟相互援助条約」で・・
  中華人民共和国とソ連邦の間で締結された軍事同盟。
  建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権が、
 アメリカの支援を受けて、「大陸反攻」をうかがうとい
 う情勢下で、中華人民共和国はソ連との提携を強めた。
  1949年12月、毛沢東が、モスクワを訪問してスターリ
 ンと会談していた。
  中ソ同盟は、「日本軍国主義とその同盟者」を仮想敵
 国とし、アメリカが日本の軍事基地から中国を攻撃する
 ことを想定して、共同防衛にあたること・・
  3億ドルの借款協定などが内容であった。
  (卑劣にも、国連憲章の『敵国条項』が影響している)
  これによって、ソ連が蔣介石の国民政府と締結(1945
 年8月15日)していた「中ソ友好同盟条約」は破棄された。
  東西冷戦が深刻化するなかで、社会主義国である二国
 の軍事同盟として機能した。
  この条約下で、中国は、1950年6月に勃発した朝鮮戦争
 に参戦し、アメリカ軍と対決することとなった。
  しかし、1950年代後半から、中ソ対立が始まったため、
 次第に関係は悪化し・・
  1959年には、ソ連が、「中ソ技術協定」の破棄を中国
 に通告し、同盟関係は事実上なくなった。
  さらに、1979年の中越戦争で、ソ連がベトナムを支援
 したことから、定められた30年間の期間が終了した1980
 年に、延長されず、破棄された。
     ・
     ・
2019年9月26日、韓国の常識ある知識人が、当然の行為であ
 る「嘘の韓国の反日論理」を批判し始めた。
  題名:韓国人が暴く反日韓国の嘘・・「李承晩TV]
 より・・(41分13秒より)
  https://www.youtube.com/watch?v=WCxIQCBdj34
  李栄薫氏(李承晩学堂の校長)の話
          (参考・・日本語翻訳:林寿泉氏)
  「事実」と「自由」を追求する李承晩TVの視聴者の
 皆さま、こんにちは。
  今日のタイトルは「日本軍慰安婦」であります。
  「日本軍慰安婦問題の真実」という、このシリーズの
 講義の核心的部分だと言えます。
  前回までの8回の講義は、実は、この講義のための予備
 の講義であったと言えます。
  1937年、日中戦争が始まりましたが、この年、日本軍
 首脳部は、全日本軍兵士の150人当たりに慰安婦1人を充
 当する慰安所を設置する事にした。
  (アメリカ軍の様に管理もせず、また、責任も取らず、
 非常に乱れた状況にアメリカ兵を置いて、そのあまりに
 乱れた状況にフランス市長が泣き付いたようになること
 を避けるため、そして、アメリカ兵がむやみやたらと地
 元女性に乱暴するようなことを防ぐため)
  軍の士気、将兵の性的欲求の解消、性病を防ぐ目的、
 また、軍事機密の漏洩防止のためもあった。
  日本軍慰安所は、280万人に近い日本軍のすべての駐屯
 地で、北はソ満国境の黒竜江地域から、南は南太平洋諸
 島まで、西はインド前線のビルマ前線にまで、日本軍が
 駐屯するすべての地域で慰安所が設置された。
  慰安所が最も多かったのは、華中地域の中国内陸地域
 と思われる。
  この写真は、上海にあった日本軍慰安所ですが、慰安
 所を監督する憲兵と慰安所の従業員たち、日本語では「
 仲居」と言う、慰安婦ではないが、その人たちが一緒に
 撮った写真です。
  玄関には、「聖戦大勝の勇士達を大歓迎」という看板
 がありますが、この様な慰安所に所属し、性的慰安をす
 る女性たち、すなわち慰安婦がいた。
  慰安所は、1937年以前にも、部隊によって、一線指揮
 官の裁量で設置されることもあったが、そこの女性たち
 は慰安婦と呼ばなかった。
  慰安婦という言葉は、1937年、日本軍の付属施設とし
 て慰安所が公式的に創設されてから生まれた言葉だった。
  この様にして生まれた慰安婦という言葉が、戦後の韓
 国でも、1960年代まで使われたことは、私が以前の講義
 説明した通りです。
  韓国政府も、民間の私娼街で働く、売春業に従事する
 女性たちを指して慰安婦と公式的に呼んだ。
  この日本軍の慰安婦制度が韓国人に大きな憤怒を起こ
 し、外交的紛争として浮かび上がったのは、1991年、金
 学順(キム・ハクスン)という慰安婦出身の女性が、自
 分の元職業を公開してからだった。
  それから28年間、長い歳月が過ぎたにもかかわらず、
 この問題が、なかなか解決できないことには、色々な原
 因があります。
  日本側だけに原因があるのではなく、韓国側にも原因
 があります。
  その韓国側の原因は、最初から、今までの28年間、こ
 の慰安婦制度に対して、少なくない誤解があったからだ
 と思います。
  その代表的な誤解の中で一つを挙げますと・・
  「慰安婦」と「女子勤労挺身隊」を間違って、混同し
 たという事です。
  女子勤労挺身体は、戦時期に、女性達が軍需工場に動
 員されて、一定期間、「労働をすることです」。
  日本と違って、朝鮮では女性を動員することが簡単で
 はなかったため、日本でのように、大量に動員されては
 いませんでした。
  この写真は、日本の名古屋にある航空機製作所に到着
 した朝鮮女子勤労挺身隊の行列です。
  主に、「高女生」など、日本語を話す事も、読むこと
 もできる女性たちが、日本へ行って、2ヶ月ほど働いて帰
 って来たのが、戦時期の女子の動員形態としてあった女
 子勤労挺身隊です。
  しかし、韓国人たちの誤解(間違い洗脳)で、女子勤
 労挺身隊への記憶・印象があまり良くない。
  その様な中で、慰安婦問題が発生すると、韓国人の人々
 は、慰安婦と挺身隊を混同し、間違って、憤怒しました。
  日帝が女性を動員して戦争に送り、慰安婦にしたとい
 う誤解・間違いであります。
  しかし、今まで、その様な(慰安婦にしたという)事
 例は、たったの一件も報告されていません。
  この写真のように、軍需工場に行った高女生達の中で、
 慰安婦として充当されたという事例は、今まで発見され
 ていません。
  (慰安婦にされたという)それは事実ではありません。
  しかし、少し前までも、挺身隊は、慰安婦と混同され
 ていました。
  例えば、2007年に、ネット上のNAVER百科事典で、
 挺身隊を検索語として入れると、「植民地女性を強制的
 に徴用」、日本軍人の性的欲求を解消するために作った、
 性的奴隷集団である従軍慰安婦のことをいう」のように、
 挺身隊は慰安婦であると、まったく間違った内容が書い
 てありました。
  (参考)NAVER百科事典:インターネット検索サ
     ービス 「NAVERを運営する会社が、無料
     オンラインで提供する百科事典サービス。
  最近、調べてみたら、内容が正しく訂正されていまし
 た。
  今はそういう誤解は、ある程度、払拭された状態です
 が、なお、まだ、色々なところでその誤解が横行してい
 る状態を見ることができます。
  慰安婦問題の解決を難しくする、これ以外の原因は、
 慰安婦の人数がとんでもなく誇張されているということ
 です。
  一時期は、朝鮮人慰安婦が、20万人もいたという荒
 唐無稽なとんでもなく誇張された説が、中学校や高校の
 教科書にまでも載っていました。
  今も教科書によって、少しずつ違ったりしてますが、
 3万人ということも、数万人ということもあります。
  少なくとも、3万人はあっただろうというのが普通とな
 っています。
  日本軍慰安婦の総人数がどれ程で、その中で朝鮮人慰
 安婦の総人数がどれ程であったのかは、合理的に推定で
 きる、いくつかの根拠があります。
  先ほど、指摘しましたように、1937年、日帝が慰安所
 を公式的に設置するとき、兵士150人当たり1人の慰安婦
 を置くという方針でした。
  このことに基づくと、全日本軍280万人を相手とする慰
 安婦の総人数は、「約1万8千人程度と考えられる」。
  1942年に、日本軍は将兵たちに支給したコンドームの
 総数は、その年の1年間、3210万個です。
  これから一日のコンドーム使用量を求め、また一人の
 慰安婦が一日に相手した将兵たちの人数を5人程度にして
 みると、「やはり同様の1万7千人ほど」の慰安婦の総人
 数が推算できます。
  この慰安婦の民族別構成は、日本人が40%、現地人が
 30%、朝鮮人が20%、その他を10%とみるのが一般的で
 す。
  日本の大衆的な売春が、日本軍の戦線が拡張するにつ
 れて、売春業者たちの大勢が、その後をついて行って、
 進出したのが、この慰安婦達の基本的流れです。
  日本人女性が最も多く、その次に、中国では中国人、
 ビルマではビルマ人、インドネシアではインドネシア人
 のような現地人が30%で、その次に朝鮮人が20%、その
 他は多様に構成されています。
  この事から推算される朝鮮人の慰安婦は、大体「3500
 人程度です」。
  この数値が合理的数値であるということができます。
  私が前回の講義で、中国の華北地域で軍慰安所を運営
 した朝鮮人売春業者が11人いて、11軒の慰安所があった
 と言いましたが・・
  1か所の慰安所当たり、多くて15人が働いたとすると、
 華北地域の慰安所に所属する女性たちの人数は165人程度
 になる。
  他の中国人や日本人が経営する慰安所にも朝鮮人の女
 性たちがいるとして、その人数を2倍、3倍にしても300人
 ~400人程度となる。
  これが、華北地域に存在した朝鮮人慰安婦の全人数で
 す。
  この様に、地域別に色々な情報を集めて推算すること
 が可能です。
  いずれにしても、大体、私は、「3500人程度が合理的
 である」と思ってます。
  しかし、この程度の数値を、いくら多く考えても5千人
 を超えない筈の人数を・・
  今まで3万人、あるいは、「20万人と主張して来たのは、
 あまりにも甚だしい誇張であった」と言えます。
  しかも、その様な数値が、教科書で使われています。
  今は、20万人という説は、教科書からは消えたものの、
 なお、その様な誇張した数値が未だに主張されています。
  私は、これは非常に大きい問題だと思います。
  また、私は、1960年代以後の50余年間、「総督府が、
 全国の土地の40%を、国有地として収奪した」と韓国の
 国史教科書の中に記述されて来ている事に対して、この
 ことが如何に荒唐無稽な話であるかを前の講義で指摘し
 ました。
  私は、1992年からこのことを主張し、ひどい罵倒を浴
 びせられて来ました。
  しかし、誰も私の主張に対して反論はしませんでした。
  結局、その数値は教科書から消えました。
  この慰安婦の実人数と関しても、似た様な現象が起き
 ています。
  3万人、あるいは、数万人という、教科書の記述は、な
 かなか訂正されません。
  何の根拠もないのに、教科書を作る人が、何らかの数
 値が必要なため、その様な、『でたらめな数値』を作っ
 て、使用していて、また、多くの人々がそれを信じてい
 ます。
  私は、ある時、韓国女性運動の指導者の一人と、個人
 的に討論をしたことがありますが、その人が、慰安婦が
 20万人説だと言ったので、私は「悪いけど、その様な話
 は根拠がないから、話さない方が良いと思います」と、
 丁寧に説明をしました。
  しかし、その人は、聞こうともしないし、結局は、怒
 りだして席を蹴って出て行ってしまいました。
  その、どうしようもない頑固な先入観が、今まで日本
 軍慰安婦問題の解決を難しくして来たと思います。
  慰安婦問題の解決を難しくした、また他の原因は、「
 奴隷狩り説」、または、「強制連行説」です。
  日本軍の憲兵が道端で女学生を連れて行った、畑で働
 いていた女性を連れて行った、鉄道駅前で通りすがりの
 女性を逮捕した、ある村にトラックで行き小川で洗濯し
 ていた女性たちをトラックに積み込んで連れて行った、
 などの様な話が多いです。
  実際に、この画面でご覧になれる吉田清治という人が
 その様な話をデッチ上げて作った有名な人たちの中の一
 人であります。
  この吉田清治氏は、自分がその様なことを1940年代に
 済州島でやったという話を本にした。
  「私の戦争犯罪」という本を書き、一時期、ベストセ
 ラーにもなりました。
  彼によりますと、済州島で、主に、今日の大静面(テ
 ジョンミョン、済州島大静面)ですが、そこで、なんと
 200人の女性たちを拉致したと主張した。
  日本の朝日新聞が、日本で三大日刊紙である朝日新聞
 が、その人とインタビューをして報道した。
  しかし、歳月が20年ほど過ぎて、真実が明らかになり
 ますが・・
  吉田氏は、虚名とお金が欲しくて、その様な嘘話を捏造
 したのでした。
  結局、朝日新聞も、その報道が誤報だったということ
 を認めた。
  それでも、なお、多くの韓国の人たちは、その話を事
 実として信じています。
  韓国の有名日刊紙である朝鮮日報でさえも、わずか2
 年前~3年前、「済州島の洗濯場で、日本人達が女性達
 を拉致した」という嘘の記事を、すでに、虚偽と判明さ
 れていたその話を、公然と新聞の社説に書いた。
  吉田氏とは別途で、韓国では、この慰安婦問題が浮か
 び上がって以来、似た様な話を素材にして、これでもか
 というくらい数多くの小説や映画が作られた。
  少し前にも、皆さまもご存じだと思いますが、慰安婦
 に関する「帰郷」という題名の映画が作られました。
  この可愛い少女たちが、この様に日本軍に連れて行か
 れる場面を映画で演出した。
  その場面を見た多くの韓国の人々が涙を流しました。
  趙廷来(チョ・ジョンネ)の大河小説「アリラン」で
 も、似た様な、類似した場面があります。
  ある地域の区長(面長)が自分の区(面)に割り当て
 られた慰安婦の人数を満たすために、ある農民を呼んで、
 「仕方ない、君の娘を慰安婦として挑発するよ」と通達
 する(嘘の行為の、作り話の)場面があります。
  私は、以前の講義でも説明しましたが、「荒唐無稽な
 アリラン」という講義の中で、作家の趙廷来(チョ・ジ
 ョンネ)の堕落した精神を最大に(無限に)軽蔑します。
  汚い種族主義の標本であります。
  相手を乱暴な野蛮な種族と蔑め、それと同時に自らを、
 自分の娘を徴発するにも関わらず、何の抵抗もしない、
 無限に卑怯で無気力な種族と卑下する、その様な賤しい
 精神文化が他ならぬ趙廷来(チョ・ジョンネ)の文学精
 神です。
  問題は、趙廷来(チョ・ジョンネ)だけではありませ
 ん。
  その様な映画や小説に憤怒し、涙を流す今日の韓国人
 が共有する種族主義的精神文化、それが問題の本質です。
  その様な「奴隷拉致説」や「強制連行説」を裏付ける
 別の根拠として、生存している元慰安婦達の証言があり
 ます。
  歴史と関連して、個人の証言を資料として採択すると
 きは、非常に慎重でなければなりません。
  例えば、20世紀に入り、アメリカの歴史学者たちは、
 南北戦争以前の元奴隷たちを対象に、彼らの奴隷時代に
 関する記憶を採集しました。
  いわゆる口述史学がその時から始まったと言われます
 が、その時に歴史学者たちは、元奴隷たちとインタービ
 ューをする度に、個人の記憶が変わり、一貫性が維持で
 きないことに気付きました。
  昔のことであるため、記憶が薄いこともあって、前後
 が錯乱を起こすこともあり、また、その間に、新たな記
 憶が作られることもあります。
  何より、インタービューというのは、多くの場合、当
 事者と聞き手との対話です。
  しかし、その対話の過程で、その記憶が政治化するこ
 とがあります。
  相手が聞きたがる話が何かを口述者は気付いて、その
 聞き手に合わせて、自分の記憶を再生産するのです。
  元慰安婦の証言もその様なことが多いです。
  ある女性は、鉄道駅前で日本軍に連行され、中国に行
 ったが、その汽車の中には、自分以外にも多くの女性た
 ちと軍人たちが乗っていたと言いました。
  ところが、この女性が、1999年に話した、最初の証言
 は、その様な話と違います。
  継父が自分を売ったと、自分は日本軍よりも継父をも
 っと恨んでいると言った。
  継父が自分を売ったというのが元の記憶です。
  しかし、インタービューをしたら、聞き手が何か他の
 内容を聞きたがることに気付き、その様な話をすると歓
 迎されるし、国民の同情も受けられ、さらには、政府の
 補助金まで受けられることが分かったので、また、証言
 を間違えると、その補助金が取り消される可能性もある
 ことが分かるから証言を変えるのです。
  それで、鉄道駅前で日本軍に拉致されたという話をす
 る。
  この様な事例は、他にもいくつかあります。
  ここでは、そのことに対しては、これ以上時間を使わ
 ない事にします。
  それでは、その可哀想な女性たちはどの様にして慰安
 所に行き着いたのでしょうか?
  それに対する私の理解は、主張は、実は今までの三回
 の講義で既に十分ご説明をしてきたと思います。
  視聴者の皆様は、私がどうして、日政期に施行された
 公娼制に関しての話をそんなに長くして来たのか、今、
 ご理解いただけると思います。
  慰安婦制度は、日本軍首脳部が1937年のある日に突然
 作り出したものではありません。
  それは、以前から、公娼制の形態として存在してきた
 ものであります。
  『軍周辺で、民間業者が、軍の後を着いて来て、女性
 達を連れて、各種の料理屋やカフェの形態としての慰安
 施設を作っていた』・・
  それを、1937年に、日本軍が軍の慰安施設として公式
 化し、軍の慰安施設として軍がその時から監督・統制を
 始めた。
  それが正に慰安所制度であり、慰安婦制度です。
  その様な変化に対し、関連研究者たちが「公娼制から
 慰安婦制」という命題として、その変化を説明していま
 す。
  これは私の主張ではありません。
  私が読んだ慰安婦制に関する重要な研究は、昔から、
 慰安婦問題の発生時から主張して来ています。
  「公娼制から慰安婦制」の学説を最も早く説いたのは、
 日本の青山学院大学の宋連玉という(韓国人)教授です。
  もう一人の日本で重要な研究者を挙げると、藤永壮と
 いう日本人教授がいます。
  宋連玉教授は在日同胞です。
  在日同胞の研究者としては、また、金富子氏や金栄氏
 のような重要な研究者たちがいます。
  彼ら、日本で活動している研究者たちは、慰安婦問題
 が提起されて以来、早くから日本軍慰安婦制度は、「公
 娼制という後方部隊を前提にして編成した前方部隊であ
 る」と、主張して来ました。
  韓国国内でも彼らと交流をしながら、同様の立場にい
 る研究者たちがいます。
  尹明叔(ユン・ミョンスク)氏やパク・ジョンエ氏の
 ような方々がそうです。
  私の以前の講義の相当部分は、彼らの研究成果に頼っ
 ていて、紹介するようなものでした。
  ここで、以前の講義の内容を思い出して戴きたいので
 す。
  近代国家が公娼制を施行したのは、前近代的で身分的
 な人身売買を禁止し、国民健康のため、性病を統制する
 ためでありましたが、より直接的な動機は、軍隊組織の
 士気を高揚させるための慰安施設が必要であった。
  1910年、「朝鮮で施行された公娼制度」も同様です。
  その設立により開かれた貸座敷遊郭地域の相当部分は、
 日本軍駐屯地と近接した地域で、一種の軍事慰安施設と
 して作られたものでした。
  初期には、朝鮮に渡った日本軍人を始め、少数の日本
 人男性のための特権的売春産業でした。
  女性達も、主に日本から渡った日本人娼妓でした。
  (関連)朝鮮半島には、冊封されている中国の官吏た
     ちを、朝鮮半島の女性達が夜の接待をする制度
     と施設が、古い時代から長く存続していた。
  それが、植民地的開発と共に、朝鮮人の大衆が参加す
 る大衆的売春産業として発達するようになる。
  朝鮮人の娼妓、酌婦、芸妓も増加し、彼女たちのとこ
 ろを訪れる朝鮮人遊客人数も増加した。
  貸座敷遊郭や料理屋などの飲食店に娼妓、酌婦、芸妓
 を引き込むのは、あるいは供給するのは、他ならぬ人身
 売買に携わる業者の経路からでした。
  大衆的売春業は、さらに国境を越えて満州、台湾、中
 国関内、日本にまで拡散していきましたが、それと共に、
 前回ご説明しました通り、人身売買がもっと盛んになり、
 貧しい家の娘たちをその地域に出したのです。
  また、以前の講義で行った事でありますが、この市場
 では、古くから各種の店に女性達を供給する周旋業(뚜장이、
 女衒)が、最近の言い方としては、一種の職業仲介所の
 ようなものが発達していました。
  女性達は、「日本軍に強制的に連れて行かされたので
 はありません」・・
  彼ら、「周旋業者によって連れて行かされたのです」。
  貧しい家の非情な父親たちは、この周旋業者・뚜장이か
 ら前貸金をもらい、娘たちを売り出したのです。
  娘たちは、泣きながら、または、殴られながら、周旋
 業者たちに連れて行かされたのです。
  「それが隠す事のできない事実」、この時代の実態で
 す。
  先ほど紹介しました、ある女性が、ある元慰安婦が、
 継父が自分を売ったと言ったのが、その例です。
  最初に慰安婦だったことを告白した金学順という女性
 も、継父から売られて遊郭に渡され、以降、転々と流さ
 れる数奇な人生を送ったのです。
  この様な状況の中で、時代的状況の中で、1937年、日
 本軍が慰安婦制度を創設したのは、何もない所に建物を
 作り、女性たちを拉致して来た、というものではありま
 せん。
  日本軍慰安所は、「軍の後を付いて来た民間」の貸座
 敷や料理屋を、軍専用の敷設に指定したものと相違あり
 ません。
  軍が直接設置し、運営した慰安所もありましたが、そ
 の様なものは少なく、ほとんどは部隊周辺の民間の店を
 慰安所として指定して、その運営を委託ないし監督する
 ような形態でした。
  前回の講義で紹介したが、1937年、日中戦争が勃発す
 ると、平安道の義州出身の38歳のパク・イルソックとい
 う男性が上海で「カフェ亜細亜」を開業した。
  この彼の店は、2年後に慰安所として指定された。
  当初、2千ウォンで始めた彼の商売は、1940年には7万
 ウォンにまで大きく繁盛した。
  カフェが慰安所と指定されると、どのような結果が発
 生するのでしょうか?
  カフェの女給たちは、慰安婦という身分に変わるので
 す。
  正にそれが、慰安所にほとんどの女性たちが供給され
 る基本的な経路であったと言う事が出来ます。
  似た様な事例を以前にもご紹介したことがあります。
  国内の威鏡北道会寧の徳川楼の場合です。
  私がこの写真を見て、朝鮮時代の妓生歴史の伝統を継
 ぐ、会寧の妓生たちを見て、感じた感情を以前の講義で
 お話ししたことがありますが、その時の徳川楼という日
 本人料理屋です。
  1912年に開業したこの料理屋は、1937年、戦争が勃発
 した以降、民間の出入りが禁止された軍専用慰安所施設
 に変わります。
  その様な環境で成長したこの子供が後で回顧し、次の
 様に述べます。
  「1938年以降、遊興業に規制が掛かった。民間の利用
 はほとんどなくなった。徳川楼は規模を縮小した。しか
 し、戦争以降、会寧には軍人の数が多くなり、日曜日や
 休日だと、以前よりもずっと込み合って景気が非常に良
 かった。母は非常に忙しくなった。我が家は接待時間を
 減らし、価格を下げる戦略で対応した」。
  民間が開業した部隊周辺の料理屋が、その料理屋が戦
 時期になり、軍慰安施設に転換したのであります。
  すると、写真での、この緒戦の酌婦たちが、軍慰安婦
 として身分を変えたのであります。
  これが満州と中国そして朝鮮、日本にいた慰安婦が充
 当される基本経路であったと、つまり、公用売春市場が
 成立すると、人身売買という基本経路を通じ、貧しい家
 の娘たちが非情な父親によって、売り出されたのである
 と、それが、慰安婦が生まれる基本経路であったという
 ことであります。
  要するに、日本軍慰安婦制度の歴史的意義を要約する
 と、日本軍慰安婦制度は、既存の公娼制を軍事的に再編
 成したのであります。
  その様な変化は、公娼制そのものが元々その様な属性
 を持っていたので、つまり、軍事慰安施設としての公娼
 制であったので、その変化は断絶的変化というよりは連
 続的変化でありました。
  そのため、朝鮮、満州、台湾、日本など、公娼制が早
 くから発達したところでは、単純な名称変更に過ぎない
 ケースも多かったのであります。
  もう一回強調しますと、1930年代に大衆的売春産業が
 発展し、その売春産業が戦時期になるにつれ、軍事的に
 動員され、再編成されたのが、他ならぬ日本軍慰安所及
 び日本軍慰安制度であったという事であります。
  中国で、慰安所という別の大衆的売春市場が開かれる
 と、民間の人身売買は、もっと活発になりました。
  1939年から1941年、朝鮮には「毎日新聞」がありまし
 たが、この「毎日新聞」に載った人身売買に関する記事
 は、なんと120余件に達します。
  最も盛んに人身売買を行なった人としては、ハ・ユン
 ミョンという朝鮮人の夫婦が有名でした。
  なんと150人の少女を満州などに売り渡したそうです。
  40人余りを売り渡した某業者もいました。
  彼らは、娘を良い所に就職させると騙して、父母の承
 諾書または白紙の委任状をもらったり、または、家庭問
 題、例えば貧困か暴力、その他は、友人の誘いなどの色々
 な理由で家出をした少女たちを自分の子供として入籍し
 たり、また、様々な方法で少女を単独戸主にしたり、様々
 な方式で書類を操作しました。
  国境を越え、現地の警察の就業承諾書をもらうために
 は、しかるべき書類が必要でした。
  娼妓周旋業、すなわち人身売買業は、女性を連ねて行
 くため、腕力を行使するだけでなく、この書類を具備、
 操作するのに相当なノウハウが必要な職種でもありまし
 た。
  慰安所の運営が具体的にどのようなものであったのか
 は、事例は多くはありませんが、いくつかは具体的な事
 例を紹介することが出来ます。
  中国の、華中地域の、ここが上海ですが、内陸の方に
 行くと武漢があり、その中に当陽という、その様な地区
 があります。
  日本軍はそこまで進出し、もう少しいけば、大韓民国
 の臨時政府があった重慶ですが、この白い地域が当陽地
 域であります。
  (参考)大韓民国臨時政府:国際的に承認されてない
     存在で、また、貢献活動のない存在。
  そこに高森という名の部隊がありました。
  その部隊の慰安所に関する情報が残っています。
  ご覧の画面がそれに関するものですが、この画面は、
 同部隊が地方商人の営業区域を指定した図であります。
  ここが部隊本部兵舎のあるところです。
  また炊事場があります。
  そして、炊事場の横に、このように区域を設定し、こ
 こが部隊が管理する地方商人営業区域であり、この中に
 慰安所が、第1、第2、第3慰安所があり、その隣に飲食店
 があり、写真店があって、商店街があります。
  点線内の範囲内で、女性たちは散歩などをすることは
 できますが、出て行くときには部隊長の許可を得なけれ
 ばなりませんでした。
  これは民間の公娼制でも、遊郭地域でも同様なことで
 あります。
  この慰安所を経営した人は、中国人でした。
  弘原栄という中国人で、おそらく女性達は、ほとんど
 現地の中国人の女性達で充当されていたと思われます。
  ここで飲食店を経営した人は、名字が崔であります。
  崔金石という人ですが、名前から朝鮮人と思われます。
  日本軍の後ろをついて、中国内陸までも進出した一例
 となります。
  その隣に写真店や時計店がありますが、そこは日本人
 が経営しました。
  藤川という人です。
  この部隊の慰安所の運営規則があります。
  時間のある方は、画面を停止して詳しく見て下さい。
  すべてを説明するには時間が足りません。
  この慰安所を利用するためには、兵士であれ、将校で
 あれ、連隊長が発行した許可証が必要で、連隊長発行の
 許可証とともに現金を支出し、花券(チケット)を買わ
 なければなりませんでした。
  慰安所の帳場という会計窓口のところで、現金で買わ
 なければならず、ツケ払いや営業者と貸借関係を作るこ
 とは禁じられるし、慰安所内で飲食する事や歌を歌うこ
 とも禁じられるし、乱暴な事は憲兵の取り締まる対象に
 なり、兵士たちの利用時間、下士官たちの利用時間、準
 士官以上の将校たちの利用時間、そして、時間当たり、
 30分当たり、1時間当たりの費用はいくら、兵士たちが30
 分利用する時は1ウォン、1時間利用する時は2ウォンのよ
 うになっており、その次にこの高森部隊の中隊別に、第
 1慰安所、第2慰安所、第3慰安所を利用できる日にちと曜
 日が指定されていました。
  必ずサック、即ちコンドームの着用が義務付けられて
 いて、民間の利用は禁じられていました。
  そして、営業者は、この慰安婦達の営業状況を詳細に
 記した、一定の様式に従って記した報告書を1ヶ月に1度、
 部隊長に提出しなければなりませんでした。
  この様に、慰安所は、徹底的に営業が軍の統制下で行
 われていた公営でした。
  その意味では公娼業が軍隊に引き込まれ、再編成され
 たものであるということができます。
  慰安婦達は定期的に検診を受けなけらばなりませんし、
 営業主たちは毎月1回、慰安婦別に営業現況を報告しなけ
 ればなりませんでした。
  この様な運営規則が分かる慰安所は、そんなに多くあ
 りませんが、いくつかの事例がまだありますが、ほとん
 ど大同小異でありました。
  私は、昔、この運営規則を呼んだことがあり、それが、
 朝鮮総督府が全国の30余ヶ所の貸座敷の地域を設置する
 ときに発表した貸座敷の取締規則とあまり変わらないも
 のであると、考えたことがあります。
  その内に、先ほど言いましたように、研究者たちの研
 究を読んで、正に、「公娼制から慰安所制」との研究
 成果があるのをみて、自信をもってこの講義を、視聴者
 の皆様の中では、初めて耳にする話であるため、少し抵
 抗感を感じる方々もいらっしゃると思いますが、研究者
 の立場で自分なりの所信の下で話すことが出来たのであ
 ります。
  最後に、もう一つの事例をご紹介します。
  中国の南方の広東、ここが深圳(しんせん)であり、
 もっと南だとベトナムとの国境であります。
  その辺りに広東自治区域に南寧という所があり、その
 南に欽州というところであります。
  この欽州の最南方にあった日本軍の慰安所の話であり
 ます。
  今、御覧の資料は非常に珍しいものですが、1ヶ月に1
 度、部隊長に報告しなければならなかったのですが、そ
 の書類中の一つであります。
  この欽州日本軍慰安所は、全部で、その地域内に10軒
 がありました。
  「朝日」などの所名が見えますが、全部で10軒の所名
 を見ると、ほとんど日本式であります。
  そのため、日本の業者が日本人女性を連れて行ったの
 であろうという推測ができます。
  勿論、遠くから頻繁にリクルートすることは難しく、
 時間が経つにつれ、現地の女性も増えて行ったと思いま
 す。
  1か所当たりの慰安婦の人数は、大体5人~6人で、問題
 は、ここに転出と転入がありますが、1940年の1ヶ月の間
 に転出した女性が16人、転入したのが5人です。
  この事実は、非常に重要であります。
  契約期間が満了するか、然るべき理由が発生すると、
 女性たちは慰安所の外へと転出し、故郷に帰るか、また
 は他の慰安所に行ったのであります。
  この事実を、私は次の講義の時、より詳しくご説明を
 しながら、既存の研究者たちが主張する「性奴隷説」を
 批判しようと思っております(性奴隷ではない)
  その下をみると、慰安所別の1ヶ月の総収入があり、そ
 の次に慰安婦1人当たりの1日平均収入が示されています。
  1日の平均収入は、18ウォン程度であります。
  先ほど、階級別利用料金がありましたが、大体、計算
 してみると、女性達は、兵士、下士官、将校を一日に5人
 程と接したと思われます。
  大衆的売春産業が軍事的に再編成されるとき、その労
 働の強度は非常に厳しかったと言えます。
  前回、紹介しました、満州で発達した韓国人の売春業
 でのある女性は、一晩で30人とも接したそうですが、そ
 れは例外的なケースであります。
  とにかく、軍事的に編成された大衆的売春業の労働強
 度は非常に強烈なものであると言えますが、その分、高
 所得でもありました。
  1日の平均18ウォンというのは、当時、小学校を卒業し
 て工場に就業した女工たちの2ヶ月の給料であります。
  1日に2ヶ月の給料を稼ぐのであります。
  勿論、ここから、食費、生活費などを引きます。
  また業主(抱え主)からの前借金は大体200ウォン程度
 でしたが、この程度の収益だと前借金は女性たちを束縛
 するものにはなれないと思います。
  軍の保護下では営業は安定的でありました。
  この報告書を詳しく読むと、1940年の6月の1ヶ月間、
 慰安所で乱暴な行動をした下士官と兵士1人が憲兵たちに、
 どの様に抑えられたのかまでも報告書には記されていま
 した。
  はるか遠くの欽州まで朝鮮の女性たちは行ったとは思
 えません。
  ほとんどが日本人か現地の人であったと、広東自治区
 の現地の人であったと想像しますが、しかし、1942年に
 なると、日本軍が東南アジアに進撃する様になると、話
 が変わってきます。
  このはるか遠くまで朝鮮の女性たちの行列が続くよう
 になります。
  その事については、次の時間にお話しします。
  今日はここまでに致します。
  ありがとうございました。(1:16:34まで)
  (関連事項)
  その1:この詳しい講義で分かる様に、韓国が嘘を言
   う「日本軍が強制連行した」という事は一切なかっ
   たと明言して、説明した。
  その2:あらゆる方法で、朝鮮の貧しい家庭の女性を
   集めて連れて行った朝鮮の仲介業者(뚜장이、女衒)
   は莫大な金を稼いだと説明している。
  その3:朝鮮戦争の時のアメリカ兵士の慰安婦となっ
   た朝鮮女性が、畑で働いていた時に無理やり連れて
   行かれたということがあった・・この話が日本軍の
   しわざとされた(記憶の混同)
  その4:第二次世界大戦の直後、新宿の駅近く(今の
   フルーツ・パーラー辺り)で、進駐軍(アメリカ軍)
   のジープが来て、道を歩いている日本女性を腕力で
   車に引きずり込んで、女性が助けを求めていたが、
   戦地から帰還した元日本兵が一人であり、また、ジ
   ープで走り去ったので助けることが出来なくて、悔
   しい思いをしたと語る・・
    朝鮮戦争の時も、この様なやり方で、朝鮮の女性
   がアメリカ軍の車に引きずり込まれ、連れ去られ、
   1ヶ月くらいして帰って来たという話がある・・
  その5:今、韓国で、20万人が連れ去られたと言う運
   動家(とてつもない嘘を言う運動家)が、「史実を
   示されず、何も反論が出来ず、そして、怒って、席
   を立って出て行った」・・韓国は、この様な運動家
   の嘘で扇動され、焚きつけられている。
    しかし、韓国の人たちは、この嘘の数字の20万人
   と思い込まされているのが現状となっている。
    韓国は、小学生の教科書までもが、「間違ったで
   たらめな数字」が書かれている。
    この様な検証されない数字で、韓国の小学校や中
   学校、そして、高校生まで、28年間も教えられ続け
   ている。
  その6:朝日新聞が嘘報道した「吉田清治の嘘」は、
   韓国の済州島の人まで、「その様な事はない」と否
   定している。
    朝日新聞はこの様な事を報道しないこと!
    また、韓国も、嘘の話で出来た大河ドラマを放送
   して何も知らない韓国の人々はそれを信じ込まされ
   ている。
    1日に150人の日本兵の相手をしたなどという「す
   ぐに嘘と分かる話で埋め尽くされたドラマ」が韓国
   で放送された。
    そして、最後は、日本兵に殺されるという悲惨な
   筋書きの悪意に満ちたドラマで、韓国の方々を洗脳
   している。(1:32:45まで)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

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