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2019年9月12日 (木)

(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
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1896年8月7日、日本における初めての私鉄である日本鉄道
 が、株主総会で、田端駅から目白駅間の鉄道建設(複線予
 定)を決定した。
  そして、この日、仮免許を出願した。
  1897年5月19日、仮免許状を受けた。
  1899年5月9日に、免許状が下付された。
  因みに、これまでの経緯を記せば・・
  1872年5月、高島嘉右衛門が、東京から青森に至る鉄道
 を建設して・・北海道の開拓を支える鉄道建設を政府に
 建言したことから、日本鉄道の歴史は始まる。
  さらに、高島は、政府の要人である岩倉具視を説いて、
 鍋島直大らをして、明治天皇陛下および政府へ、「華族
 と士族が家財を以って会社を建て、東京と青森、あるい
 は、東京と越後新潟に鉄路を敷いて、蒸気機関車を走ら
 せることを補す」ことを建言させた。
  1881年8月、会社の創立が決定した。
  1881年11月、設立特許条約書が下付され、会社が設立
 された。
  政府の財政難から民間資金の導入の動きが出た・・
  1882年、川口駅~熊谷駅間から建設が開始された・・
  1883年7月、上野駅~熊谷駅が開業し・・そして、延伸
 されて行った。
  1891年9月には、上野駅~青森駅(東北本線)の全線が
 開業するに至る。
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1896年8月17日、文部省が、満6歳未満の就学を禁止した。
  この就学について、国内で激論が交わされた・・
  1872年に、日本に学制が布(し)かれたが・・
  1890年代末には、就学年齢について、満6歳と満7歳の
 いずれが妥当かという議論が激しく展開され・・
  この様な経緯の中で、日本の義務教育制度は確立して
 行った・・
  そして、6歳就学に決着して行った。
  この決定において、大きく影響を与えたのが三島道良
 (みしまみちよし、小児科医)の「6歳修学論」だった。
  氏は、「学校衛生学の父」と言われ、活躍していた。
  そして、氏は、小児科学を専門とする医学者の立場か
 ら、小学校・幼稚園の身体発育調査を実施し、ドイツ医
 学者らの知見と比較検討を行った。
  そして、それを根拠に、6歳就学を擁護する議論を展開
 した。
  氏は、満6歳という年齢の是非のみを問題とするのでは
 なく、
  家庭から学校への段差に、十分配慮すべきだという学
 術上の知見(身体発育論など)から、適切か否か判断の
 有意義な視点を提起した。
  学校教育や家庭の現実を見ながら、就学年齢・就学課
 題を考察し、論じている重要性があった。
  また、就学年齢を検討するには、身体発育、教育上の
 成績、財政状況など、多方面の要素を加えるべきだとい
 う議論も登場していた。
  「教科目を減らす必要がある」など、幅広い議論が行
 われていた。
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1896年8月17日、クロンダイク・ゴールドラッシュの幕開け
  カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方で金脈が発見
 された。
  このゴールドラッシュは1899年まで続いた。
  このニュースが、アメリカのサンフランシスコやシア
 トルに伝わると、一獲千金を狙う者どもが、大挙して殺
 到した。
  ゴールドラッシュで出来たドーソン・シティーは、一
 時、人口が3万人以上となった。
  クロンダイクを目指したのは10万人以上いたが、厳し
 い寒さや地形の険しさから、到達できたのは3万~4万人
 で・・実際に、金を採掘できた者は4000人程度だった。
  アラスカ州のノームで、1899年に、金鉱が発見される
 と、クロンダイクの騒ぎも終焉した。
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1896年8月20日、李氏朝鮮の高宗が軟禁されたロシア公使館
 の機械厰で雇われたロシア技士の雇傭契約で、高額の金
 が支払われていた。
  身分:機械士官
  名前と俸給:Remnev(ベルト)に每年銀貨200元
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1896年8月23日、独立を目指すフィリピン革命
  この年・1896年から始まるフィリピンの独立と、社会
 改革を求める革命運動。
  この運動に対して、1902年まで、弾圧のアメリカ統治
 が行なわれた。
  初め、フィリピンは、スペインに植民されていて卑劣
 な状況にあった。
  1896年、その様なスペインから独立したいと「独立戦
 争が開始された」。
  しかし、いったん、鎮圧されてしまったが・・
  米西戦争が始まると、この戦争に乗じて、共和国独立
 の宣言をした。
  しかし、米西戦争に勝利したアメリカは、その独立を
 認めず・・再度、また、フィリピンのアメリカからの独
 立戦争が始まったのだった・・当然、強いアメリカが勝
 った・・その結果・・
  1902年、フィリピンは敗れ、アメリカの統治を受けた。
  アメリカの植民地となってしまった。
  以上が経緯であるが・・
  19世紀の後半に、スペインからの独立運動が活発とな
 った時、この最初のフィリピン独立運動に、その組織者
 であるホセ=リサールがあらわれた。
  彼は、1892年、逮捕されてしまった・・
  しかし、同士のアンドレアス=ボニファシオが革命を
 組織した。
  その組織「カティプーナン(人民の子らの最も尊敬す
 べき至高の協会)」が、1896年8月、決起した。
  フィリピン革命が始まった。
  しかし、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、
 内部連絡に原因もあって、スペイン軍に押されどおしだ
 った。
  そして、残念なことに、ホセ=リサールも1896年12月
 30日、銃殺されてしまった。
  カティプーナンは革命政府をつくり、アギナルドを臨
 時大統領とした。
  しかし、彼は、穏健路線をとって、対立するボニファ
 シオらを処刑し、内部分裂が発生した。
  アギナルドは、その後、山中でのゲリラ戦を続けた。
  そして、スペイン総督と取引をし、1897年、降服し、
 香港へ向かった。
  その翌年・1898年、米西戦争が勃発する。
  この機会をとらえて、アギナルドは、戦争後の独立の
 約束を得て、アメリカに協力することにした。
  (しかし、アメリカに裏切られる結果になる・・)
  アギナルドは、約束通り、フィリピン軍を率いてスペ
 イン軍と戦った・・そして・・
  1898年6月12日、アギナルドは、フィリピン共和国の独
 立を宣言した、
  マロロスで議会を開催し、初代大統領に就任した。
  (第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)
  しかし、アメリカの裏切りが発生する・・
  1898年8月、米西戦争後のパリ講和会議で、フィリピン
 が、2000万ドルでスペインからアメリカへ売り渡される
 ことになった・・この様な茶番劇が行なわれた。
  この茶番劇の結果をたてにして、アメリカは、フィリ
 ピンの独立を認めないという行為を始めた。
  そして、フィリピンを、強引にアメリカの軍政下に置
 いた。
  しかし、フィリピンには、「フィリピンとアメリカの
 間で交わした約束があった」・・その正義があった。
  その様なフィリピンは、1899年2月、正義の戦争(フィ
 リピン=アメリカ戦争)に立ち上がった。
  アギナルドらのフィリピン革命軍は、アメリカのアー
 サー・マッカーサー将軍(日本の厚木に降り立ったダグ
 ラス・マッカーザーの父)らの指揮するアメリカ軍と戦
 った・・
  しかし、フィリピン独立革命軍は、アメリカに敗北す
 る・・
  フィリピン大統領は、アメリカに抑えつけられてしま
 った・・事実上のアメリカの植民地となった・・
  そして、アメリカの好き勝手を行なわれた・・フィリ
 ピン言語も英語化されるなどの「卑劣な占領下統治」が
 行われた。
  この様な結果になってしまったフィリピンの独立行動
 の最初には・・
  1896年のフィリピン革命に、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機があった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立があった・・、
  この革命行動によって、一時的であったが解消もした。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  (参考)フォート・ピラー:フォートは城塞の意味、
     ピラール砦は、 フィリピンの サンボアンガ市
     にあるスペイン植民地政府によって建設された
     17世紀の軍事要塞。
      現在は、フィリピン国立博物館となっている。
  アルバレス将軍は、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 したが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  この行為は、アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制がなされているため、詳細が不明で、
 闇の中に、葬り去られようとしている。
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1896年、日清戦争が、1894年に起きたが、この当時、日本
 の馬は、体形や体力ともに貧弱なうえ、調教も不十分で、
 砲の移動や補給業務も人力に頼らざるを得なかった。
  陸軍は、1896年に、軍馬補充部を設置し、支部を全国
 に展開した。
  特に、過酷な大陸の自然環境を馬に体感させられると
 して、北海道には4支部が置かれた。
  標津町には、1908年に、川上支部が設置されて、町の
 繁栄につながった。
  ここの支部では、馬を2歳から5歳まで育成し、戦地に
 送ったのは1945年までの37年間で約4万頭だった。
  冬も放牧していた。
  雪原で夜を過ごし、雪の下のササを探してはむような
 生存能力を鍛えるためだった。
  「日本釧路種」が開発された。
  これは、「日本唯一の馬の公認品種」・・しかし、既
 に、絶滅している
  この種は、日本馬の性格の良さを持ち、また、粘り強
 さも持っていた・・小型であったが力があった。
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1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、当然、侵略とは程遠く、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、日本が侵略などと言われるいわれはない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
  国際法に則(のっと)った行為を日本はした。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは虚偽であるということがはっきりした。
    この日付での産経ニュースがある。
    また、国というものは簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなければよいが・・
    また、一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
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紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のラテン人が、
 イタリア半島に南下した。
  ここから、イタリア半島の歴史は始まる。
  因みに、紀元前771年、ロムルスが、ローマを建設した
 とされている・・
  ロムルスは、「伝説上」の王政ローマの初代王。
  レムスと共に双子の兄弟だったという。
  ラテン人の貴族の子で、紀元前717年7月5日に死去した
 という(ローマ神話)(紀元前753年説がある)
   ・
   ・
紀元前814年、「カルタゴが建国された」と言われている。
  紀元前820年説などもある。
  カルタゴは、現在のチュニジアにあった古代都市国家
 で、地中海貿易を広大に行なって、栄えていた。
  初め、農耕を営む者と、海で生活する者との長い闘争
 の歴史にあったが、海運の有力者たちが、都市の統治権
 を握って行った。
  船隊を組んで、北アフリカや南部スペインの銀のほか、
 果物、家具、象牙などの貿易を行なった。
  この貿易で勢力を蓄えた。
  紀元前720年頃、地中海に進出したフェニキア人が、貿
 易都市を建設したのが始まりという説もある。
  カルタゴは「新しい都市」を意味するが、ギリシャ人
 はカルケドンと呼び・・また、ローマ人は、フェニキア
 人を「ポエニ人の町」と呼んだ。
  そして、紀元前6世紀頃、カルタゴは、地中海西部の覇
 者となって行く・・
  そして、シチリアの領有をめぐって、ギリシャの諸都
 市との争いが生じた・・(紀元前4世紀頃に至るまで、こ
 のシチリア戦争は続いた)
  また、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、ア
 フリカ内陸と沿岸一帯を領土として・・拡大した。
  紀元前540年、ギリシャとの海戦を勝利する。
  紀元前480年、カルタゴの大規模な軍事行動が開始され
 る。
  この始まりは、ギリシャに支援されたシラクサのゲロ
 ンが島を統一しようとしたことから始まった・・本格的
 なギリシャとの戦争の始まりだった。
  紀元前5世紀、カルタゴは、この地域の商業の中心地と
 なる。
  カルタゴは、強力な海軍力を有し・・ギリシャとの対
 立が増大する。
  紀元前3世紀頃より、シチリアにおける領土と、チレニ
 ア海の制海権をめぐって3回に渡ってポエニ戦争をローマ
 と戦う。
  カルタゴのハミルカル・バルカスは、30万の大軍を集
 めたと言われている。
  軍略を駆使して、ハンニバルらの将軍は、ローマと果
 敢に戦った。
  カルタゴの戦いの歴史が展開される。
  カルタゴは、ローマの名将軍スキピオ・アフリカヌス
 に敗れ(第2次ポエニ戦争)、カルタゴは凋落して行く。
  紀元前146年、カルタゴの復興を恐れたローマは、この
 年、徹底的な打撃を与え、全滅させた、
  略奪に放火・・町は廃墟となった(第3次ポエニ戦争)
  畑には塩が撒かれ、二度と作物が作れない様にもされ
 たという。
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紀元前753年、ローマが、王政時代に入る(〜紀元前509)、
  そして、紀元前509年から共和政時代に入る。
.
紀元前700年頃、ギリシャノ詩人ヘシオドスは、歴史の見方
 を・・黄金の時代から銀の時代、銅の時代、英雄の時代
 を経て、今は鉄の時代だと述べた。
  この様な没落史観を持っていた。
.
紀元前509年、ローマが共和政時代に入るが、貴族の政権
 独占で出発したローマだった。
  貴族と農民は、激しい闘争を行ない、共和政治の組織
 が完成し、ローマは、イタリア半島の統一を完了した。
  そして、紀元前287年に至る。
.
紀元前384年、アリストテレスが生まれた(~紀元前322年
 3月7日)
  古代ギリシャの哲学者のアリストテレスの言葉・・
  「人間は、自然に(本性上)国的動物であり、また、
 偶然によってではなく、自然によって、国を為(な)さ
 ぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた
 ものであるのかのいずれかである」。
  アリストテレスが言っているこの「人間より優れたも
 の」は、「神々を指している」。
  故に、アリストテレスが言いたかったことは・・
  人間は、自然に(本性上)国的動物なのだ・・そうで
 なければ劣悪な人間だ・・
.
紀元前287年、イタリア半島が統一され、共和政治体制の時
 代は次の段階に入る。
  この紀元前146年までの時代、ローマは、カルダゴとの
 間で三度のポエニ戦争をする。
  その戦争のすべてに勝利する。
  また、ローマは、東方へも進出する。
  そして、ローマは、紀元前146年に、「地中海世界の覇
 者となった」。
.
紀元前146年、ローマが、地中海世界を制覇した。
  ポエニ戦争で、カルタゴを壊滅させ、滅亡させた。
  この年、地中海世界の覇者になった「ローマ」は、こ
 の覇権確立の反動でローマ社会は乱れて行く・・
  ローマ社会の伝統は崩れ、秩序も崩れ、次第に、強大
 な軍隊をに握った個人へ権力が集中し、権力を持って行
 く。
  カエサルが勝ち残った第一回三頭政治を経て、オクタ
 ビアヌスが第二回三頭政治を勝ち残り、帝政を開いて行
 く(〜紀元前27年)
.
紀元前27年、オクタビアヌスによる帝政と「5賢帝」に依る
 帝政の時代(〜紀元後180年)
.
70年、ローマ帝国が、エルサレムを完全に破壊した。
.
144年~166年頃、カニシカ王の統治。
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180年〜284年、ローマ社会の秩序が、この頃、大きく崩れ
 た。
.
284年〜476年、ローマ社会の崩壊を、ディオクレティアヌ
 ス帝の専制君主制の樹立で食い止めた。
  しかし、ゲルマン民族の大移動でローマは分裂し、西
 ローマ帝国の滅亡に至る時代。
   ・
   ・
11世紀〜13世紀、中世と言われる中世中期の最盛期。
  社会を支えていたのは、農民の農奴の立場の人々だっ
 た。
  その農民を支配した者は、荘園を所有していた領主た
 ちで、主従の関係で結ばれていた。
  そして、騎士・・、
  そして、頂点のローマに居るローマ皇帝まで・・ピラ
 ミッド型の封建制度で築き上げられていた。
  それと、キリスト教の教皇(ローマ法王)を頂点とし
 た、キリスト教イデオロギーで、世俗社会に根を張った
 キリスト教カトリック組織が存在した。
  この頃、発生した都市には、ゴチック様式のキリスト
 教会が建ち・・
  また、この頃出来た大学・・キリスト教は、権威を得
 たいと、また、組織を大きくしたいと「この大学とくっ
 ついた」。
  そして、キリスト教は、組織の強大化のための金と、
 権威を得ることに執着し、世俗の権力を凌駕して行った。
  そして、その権力を得たキリスト教の圧迫から解放さ
 れたいと「12世紀ルネッサンス」と呼ばれる「人間性の
 復活を主張する運動」が花開いて行った。
  最終的に、キリスト教権力は、皇帝を凌駕し、アジア
 へ無謀なキリスト教十字軍を何度も派遣した。
     ・
     ・
1909年12月4日、朝鮮・韓国の最大の政党が「日韓合邦を要
 求する声明書」を提出した。
  朝鮮・韓国内は、日本と併合したいという意見に満ち
 ていた。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も、日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政
 府と社会を発展させようではないか」と書かれていた。
.
1910年8月29日、日韓併合がなされた。
  そして、第二次大戦後は、アメリカ(アメリカ軍政庁)
 が、朝鮮半島南部(現:韓国の地域)の統治を開始した。
  そして、1948年8月15日に至り、アメリカ(アメリカ
 軍政庁)からの独立を宣言し、韓国(大韓民国第一共和
 国)の建国に至った。
  日韓併合がなされる前の李氏朝鮮という時代・・日本
 との日韓併合がなされる前の時代は、清朝・中国の冊封
 下の従属国、属国状態にあった。
  清朝・中国へ、日本は「朝鮮は独立の国だ」と主張し
 た・・その如くの状態だった・・この問題で、日本と中
 国に対立関係が生まれた。
  日本は説明した・・「朝鮮国は、自主の邦にして日本
 国と平等の権を保有せり」と・・
  中国は、朝鮮を属邦と考えていたため対立関係が生じ・・
  李氏朝鮮の王の高宗も「朝鮮は中国の属邦である」と
 言うくらいの、国の元首が言うくらいの「属邦根性の異
 常状況」だった。
  日本の国内には、「朝鮮に国力がつくまで保護国とす
 るべきだ」との意見もあった(伊藤博文)
  朝鮮・韓国というお荷物状態の国を背負わないで、状
 況の経過を見るという「この考え方が良かったのではな
 いか」と言える。
  桂太郎首相や小村寿太郎外相は、政府内で、「韓国の
 現状に照らして将来を考量(こうりょう、物事をいろい
 ろ考え合わせて考え判断する)するに、韓国を併合する
 より外に他策なかるべき」と演説した。
  伊藤博文も、「協同的に進み、進んで一家たらんをせ
 ん」と言った。
  韓国内も「日韓併合大歓迎」で、韓国の最大の政党の
 「一進会」は「日韓併合をして戴きたい」と「併合の推
 進運動」をした・・そして・・
  1909年12月4日、「日韓合邦を要求する声明書」を提出
 するという状況だった。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受したい」と
 書かれていた。
  しかし、2019年の今、この様な歴史の事実をまったく
 (知ってか知らずか)非礼で、無視する韓国となってい
 る・・
  この様な状況であるので、可哀想ではあるが、本当の
 ことを言わなければならないので、以下の様な事を記す。
  韓国・朝鮮は貧しい国だった・・本当に貧しい国だっ
 た・・。
  李氏朝鮮は、悪い政権だった、良くない政権だった。
  それも長く続いた政権だった。
  「何の国づくりもしない」最悪の政権だった。
  道路は、畑のあぜ道のような状態のままだし・・
  学校も、5校という程度で、「ほとんどない」という
 状態で、「教育がなされていない」という国の状態だっ
 た。
  また、鉄道も、1本もないという状況だった。
  朝鮮・韓国社会には、リャンバン(両班)という特権
 階級が存在していて、一般庶民の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  農民や一般庶民の方々は、金銭を取り上げられ、また、
 労働も取り上げられ・・貧困に喘(あえ)いでいた。
  農民の方々は、生活に困って娘を売ったりした。
  韓国・朝鮮にはゼゲン(女衒、뚜 장이)というその様
 な娘を買う商売人たちが居た。
  (語彙)女衒(뚜 장이):女衒は、主に若い女性を買
     い付け、遊廓などで性風俗関係の仕事を強制的
     にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種。
  町に、この様な女性が居る韓国・朝鮮を、日本は救っ
 た。
  最悪状態だった朝鮮・韓国を救った。
  1910年に、日韓併合がなされ、韓国・朝鮮の方々は、
 皆、大喜びだった。
  日本のこの時のことを「良かったよ」と言う韓国の老
 人の方々が、大勢、居た。
  しかし、時が過ぎ、その様な老人の方々も亡くなって
 居なくなった。
  そして、韓国は、昔のことを忘れたのか?
  反日教育がなされ・・その様な教育で「反日を刷り込
 まれた若者が、まだ、日韓併合時の事を知っている老人
 の方々が居る頃は、反日教育を刷り込まれた若者が、日
 韓併合時の事を聞くと、「良かったよ」という返事を聞
 き、予想に反した返事に・・学校の反日教育との違いに、
 その返事にびっくりすることも起きていた・・
  しかし・・その様な老人の方々も少なくなって、居な
 くなると・・真実を教えてくれる人々も居なくなると・・
  現政権は、反日に、韓国の方々を煽っている。
  嘘の慰安婦像を建てることまでして、洗脳している。
  それも、世界中に立てるという行為を辱(はずかし)
 くもなく行っている。
  世界の方々が、この後、だんだん本当のことを知る様
 になって来たら・・その像が、逆に、韓国が軽蔑される
 像になることを、韓国は知らない。
  この様な嘘の低次元の事ばかりしている「現在の韓国
 政権」の状況となっている・・
  地続きの中国に虐げられ、冊封されて来て、韓国は、
 この様な態度を取る「ひねくれた性癖の国」になってし
 まった。
  この問題の根底には、長い中国の冊封支配がある。
  韓国・朝鮮は、この植民地支配下に、長い期間あった。
  海を隔てた日本は、この逆で、海の隔たりも幸いし、
 独立が守られ、豊かな文化の中で育(はぐく)まれた。
  日清戦争で、強烈にぶつかり合う時もあったが・・日
 本文化は豊かに育まれた。
  中国という国自体も、色々な民族が奪い合う「戦いの
 歴史の中にあった」。
.
1910年、日韓併合によってできた官庁の朝鮮統監府は(設
 置は1909年)、新たに、戸籍制度を朝鮮に導入した。
  そして、李氏朝鮮時代には、「人間とは見なされず」、
 姓を持つことも許されていなかった朝鮮・韓国の奴婢や
 白丁などの人々(賤民)へも、姓を名乗って良いとした。
  そして、その戸籍には、身分を記載する必要などない
 として、皆を平等に登録するようにした。
  それまでの朝鮮・韓国の非人道的な行為を廃して、人
 道的な行動を行なった。
  また、当然、その身分が開放された方々(賤民とされ
 た人々)の子弟も、日本が作った学校へ通えるようにし
 た。
  この様な状況に、身分解放に、反発する旧来の朝鮮・
 韓国の「特権階級に居た朝鮮の両班(リャンバン)」は、
 激しい抗議デモを繰り広げた。
  身分にかかわらず、機会均等に、教育機会を与えるべ
 きと考える日本政府によって、その反対行動は治められ
 退けられた。
  因みに、日本は、1918年のパリ講和会議においても、
 盛んに、「人種的差別の撤廃」を世界最初に訴(うった)
 え、主張した。
  (1918年11月13日、外交調査会において、「人種的偏
 見の除去」を主張している)
  1919年1月14日、パリに到着した日本全権団は、人種差
 別撤廃提案のため、各国との交渉を開始した。
  各国の賛同を得られたが・・結局、アメリカの策動の
 ため、この条項は採択されず、削除された。
  アメリカは、「内政干渉だ」と強い批判をした。
  アメリカは、「人種差別国だった」ので後ろめたかっ
 た。
  イギリスやカナダも、このアメリカに引きずられた。
.
1910年、困窮している朝鮮の方々を救うため、日韓併合で
 出来た朝鮮総督府は、土地調査事業を行ない、土地の所
 有権をはっきりさせて・・
  その所有者不明の土地を、朝鮮の農民の方たちへ安い
 価格で払い下げた。
  しかし、韓国は、この土地調査事業を土地の収奪の為
 だったと、ひねくれた言い方をしている・・韓国は、こ
 の様な言い方ばかりしている。
  日本は、李氏朝鮮時代の農地は荒廃していて、また、
 高い小作料から離村する人が多かった・・この改善のた
 め、この様な施策を行なったのだった。
  それでなくても、朝鮮民衆は、官吏や両班や高利貸し
 から苦しい圧迫を受け、収奪されていた。
  日本が指導した朝鮮総督府は、しっかりした農業経営
 が出来る様に、さらに、この朝鮮の農地の水防工事を行
 い、また、水利工事を行い、朝鮮の農業を育てようとし
 た。
  また、農業を伸ばそうと、水利組合を結成させたり、
 金融組合を結成させ、安い金利で融資を受けて、農業を
 大きく伸ばそうとした。
  日本を貶(おとし)める事ばかりをしているNHKや
 元NHK職員の池上彰は、「日本は朝鮮を植民地にした」
 と、日本を貶める印象操作の放送ばかりしている。
.
1940年10月、アメリカで、「マッカラム覚書」が作成され
 た。
  その中に、「日本を追い詰めて行く行動を行う計画が
 書かれていた」。
  そして、追い詰めて、日本を窮地に陥(おちい)らせ
 て、どうしようもない状態にすることが書かれていた。
  これは、はっきりとした「日本を暴発させようという
 策略の覚書だった」。
  全面的に禁輸にするのだと・・
  アメリカにある日本の資産を、資産としての活用をさ
 せないで、凍結して、経済的に締め上げるのだと・・
  生産活動や生活する上で重要な、そして、必ず必要な
 石油を、一切渡さないで・・禁輸にするのだと・・など
 などが書かれていた・・
  貴方の食事が、あなたの前に、一切、出て来なかった
 ら・・貴方はどうしますか?・・
  ご飯を食べないで、我慢が出来ますか?
  電車や車や、船も動かず・・
  「取り上げられたままの様な状態」になったら・・貴
 方はどうしますか?
  「大切な電気も来ない」という状況・・その様な生活
 となったら・・貴方は、どうしますか?
  この時、アメリカは、『まったく非常識な』、この様
 な事を、日本に対してやり始めた・・
  この様な計画を立てた。
  このアメリカの行為は、日本に対して戦いを始めたの
 と同じ行為だった・・
  『事実上の宣戦布告』だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、日本に対して「宣
 戦布告と同様なこと」を始めた。
  この覚書を作成したアメリカ海軍情報将校のアーサー・
 マッカラム少佐は、日本が暴発せざるを得ない状態にす
 る行動を書いた。
  ルーズベルトは、これを、着々と実施し、行なった。
  日本を追い込んで行った。
  戦争が起きる原因を、「完全にアメリカが」作ってい
 た。
  日本が、アメリカの最大の攻撃戦力の艦隊が、ハワイ
 の真珠湾に居る事を知っているのと同じように・・
  アメリカも、日本の艦隊の動きのすべてを知っていた。
  日本の艦隊の無線電信も「完全に把握していた」。
  アメリカは、日本を戦争に誘い込む道を「真空の海」
 と呼んでいた。
  だから、ハワイへ進む日本艦隊のすべてを知りながら、
 手出しをしないで、誘い込みをしていた。
  だから、総べてを知るルーズベルトは、つい、「明日、
 日本が攻めて来る」と、親しい人へ、事前に、言ってし
 まっていた。
  そして、真珠湾攻撃が起きると、「戦争を作った」と
 言って喜んだ。
  また、イギリスのチャーチルへ電話をかけ、戦争(第
 二次世界大戦)が始まったことを喜び合った。
  (すでに始まっていたイギリスのドイツとの戦いに、
 アメリカが参戦して、イギリスを助けに来てくれると・・)
  日本の無線電信で、アメリカは、日本の攻撃目標が、
 ハワイの真珠湾だと知っていたが、ハワイのアメリカ海
 軍司令部へ、そのことを連絡をせず、「日本の奇襲とい
 う形をでっち上げる行為をしていた」。
.
1941年1月20日、フランクリン・ルーズベルトが第39代アメ
 リカ大統領に就任した(~1945年1月20日)
  ルーズベルトの言葉・・
  (大統領に就任する直前・2ヶ月前の言葉)
  「私の先祖は、中国貿易に従事した事がある。
  だから、いつも中国人には親しみがある。
  そんな私が、『日本をやっつけよう』と言うスティム
 ソンに、同意しないわけがないではないか」。
  ルーズベルトは、中国を支援して、隠密に、秘密裏に、
 命令書を書き、アメリカ軍の正規兵や武器や資金を中国
 へ投入した。
  真珠湾攻撃以前から、秘密裏に、中国で、アメリカは
 参戦していた・・そして、日本を攻撃していた。
  卑怯な事に、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を「日本の
 奇襲攻撃だと仕立てた」。
  そして、また、このフランクり・ルーズベルトの祖先
 の中国貿易と言ったって「麻薬貿易」だった。
  ルーズベルトの母方の家系であるデラノ家の祖父や伯
 父が、香港を根城・中心地にして、アヘン貿易で大儲け
 していた。
  その人非人の稼業で、巨万の富を築いた。
  大統領選挙の時に、この金が動いたのだろう。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ議会で、
 「日本にだまし討ちにあった」と嘘の演説をした。
  ルーズベルトは、アメリカの議員の方々を騙した。
  ルーズベルト大統領に騙されたアメリカ議員の方々は、
 日本を「討ち負かせ」と、「日本に対して宣戦布告の戦
 争開始の議決をした」。
  ルーズベルト大統領の嘘の演説に、「完全に騙されて
 いた」。
  まったく、ルーズベルト大統領の策謀に嵌(はま)っ
 てしまったアメリカ議会だった。
  そして、事もあろうに、総べては、ルーズベルトが仕
 組んでいるのに、ルーズベルトは、策謀で、「ハワイの
 キンメル太平洋艦隊司令長官に、情報を伝えなかった・・
 にもかかわらず・・キンメル司令長官を悪者に仕立てて・・
  「キンメルが、真珠湾の対策を怠ったから悪いのだ」
 として、キンメルに罪を着せて、キンメルに責任をとら
 せた・・解任してしまった。
  戦後になって、これ等の「ルーズベルトの策謀が明ら
 かになる」と・・キンメルの親族や友人や支持者たちが、
 「キンメルの名誉回復のために起ちあがった」。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトに騙されていた
 と真実を知るようになった。
  「日本の奇襲だ」なんて言う話は、完全に、ルーズベ
 ルトのデッチ上ゲだと分かったアメリカ国民の方々だっ
 た。
  「日本の暗号を、アメリカは、完全に解読していて、
 日本の行動の一部始終を、アメリカは完全に知っていて・・
 『日本の奇襲』なんて完全に嘘のデッチ上ゲであって、
 そんな事は言えないと・・「本当のことを知ることとな
 った」。
  また、アメリカは、卑劣にも、日本の攻撃によってア
 メリカの一般市民の方が亡くなったと嘘を言った・・
  しかし、日本の機動部隊は、ハワイの「軍事施設のみ」
 を攻撃目標にしており、日本は、一人のアメリカ市民の
 方々を標的にしていない。
  逆に、アメリカは、広島・長崎の原爆や、東京・大阪
 などの日本のあらゆる都市の一般市民を標的にして、「
 無差別爆撃のじゅうたん爆撃」をしており、国際法違反
 の行為をしている。
  この点においても、日本は非人道的な行為を、アメリ
 カの様にしていない。
  日本は、この点でも、アメリカを上回った行動にいる。
  日本の潜水艦に搭載した飛行機で、アメリカ本土爆撃
 をした時でさえ、日本の爆撃は、アメリカ市民を攻撃目
 標にしていない・・
  アメリカ市民の方々の命を狙うような爆撃を避けてい
 て、戦後、この飛行士が、アメリカの方々から表彰され
 ているくらいだった。
  この様な点でも、「日本は、完全にアメリカを上回っ
 ている」。
  アメリカは、戦争に勝ったとはいえ、愚かな卑劣な歴
 史を残している。
  今後、永久に、「このアメリカの汚点は歴史に刻み続
 けられる」。
  不名誉な事をしてでも勝ちたいという「アメリカの卑
 怯な愚かさが・・歴史に永久に残された」。
.
1941年12月8日、第二次世界大戦を、日本には、まったく
 アメリカと戦う必要性など完全になかった。
  日本には、アメリカと戦争をするつもりもなかった。
  しかし、アメリカの挑発によって、戦争に引きずり込
 まれて行った。
.
1950年代、中国には、400以上の民族が居ると言われている。
  実態は、よく分からない状態。
  中国は、色々な民族が、中央政府を取り合ってきた歴
 史の中にある。
  この多民族国家の中国、1950年代から、中国政府は、
 言語学者や民族学者に調査をさせ、民族認定をさせた。
  1979年に、順々に民族認定をして来て、この年、ジノ
 ー族が56番目の民族として確認された。
  しかし、これが最後となり、調査が終わってしまった。
  貴州省黄平県のグォージアレン《革(人偏)家人》民
 族は、民族とされなかった。
  今、57番目の民族として認めてもらいたいと「活動を
 している」。
  一時は、別の民族と一緒にされそうになった。
  その様な動きを拒絶し、押し返すことが出来た。
  今、中国には、未識別者が居る。
  その数は64万人と言われているが、不確(ふたし)か
 である。
  因みに、中国の総人口でさえ、はっきりした数が分か
 っていない状態。
  日本の様に、しっかり把握されていると思ったら大間
 違いである。
  中国のデーターで、確かなものは、「まったくない」
 と言ってもよい状態。
  中国は、今、漢民族の言葉に統一しようとしている。
  オロチョン族の人は、「自分たちの言語や伝統や文化
 が、無くなるとは思っても居なかった」と言う。
  習近平は、2020年までに「全国に標準語(漢民族語)
 を普及させる」としている。
  それを、「漢民族とその他の民族(55民族と言ってい
 る)を包括する『中華民族』にとって、共同体意識を強
 固にする」と、自分たちの漢民族に都合の良い理屈を言
 っている。
  そして、標準語(漢民族語)を修得すれば、仕事が得
 られるということを言ったりもしている。
  「漢民族化への圧力」が増している。
  中国は、超長期にわたって領土を拡大して来ている。
  中国は、57番目の民族として日本民族を狙っている。
  チベット、ウイグル、内モンゴルは、すでに、その被
 害を受けている。
  「満州族の地は、すでに無くなってしまった」。
  満州族の方々も居なくなった。
  どこへ行ったのか? 今は、まったく不明状態。
  地名は「中国東北部」となった。
  その実態は、「中国東北侵略部」。
  そして、今、中国は、その先のシベリヤのロシア領へ
 浸透を続けている。
  「太平洋を半分くれ」という事も「表明している」。
  南シナ海は、「すでに、占領を完了した」。
  今、太平洋の南の島々へ工作の手を広げている。
  一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自
 由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
1965年、日韓基本条約が締結された。
  この条約によって「過去のわだかまりの一切が解決し
 た」と合意した。
  日本の首相は佐藤栄作首相、韓国は朴正罷(パクチョ
 ンヒ)大統領だった。
  日本は、この時、最大限の誠意を示した。
  この頃、日本は、まだ、裕福ではなく、外貨準備高も
 わずかで18億ドルしか無かった。
  しかし、日本は、その中から5億ドルも韓国に支払い、
 そして、与えた。
  外貨準備高の3割近い28%も、身を切って与え、支払っ
 た(無償3億ドル、有償2億ドルの賠償金とした)。
  日本は、大きな負担を背負ったのだった。
  精いっぱいの誠意を見せたのだった。
  これによって韓国経済は飛躍的に伸びた。
  「漢江の奇跡(はんがんのきせき)」と呼ばれるほど
 の発展をした。
  韓国は、この時、「個人補償は、国がやるから、総べ
 てを国家に支払ってもらいたい」と言い、「国家賠償に
 してくれ」と言った。
  これは、韓国政府の決定事項だった。
  しかし、後になって、今頃になって、個人補償が終わ
 ってないと言い出した。
  約束では国に払ってくれ、韓国の国に払ってくれれば、
 韓国の国から韓国の個人に支払うからと言われ、そして、
 約束し、だから、日本は韓国の国へ支払ったのに、終わ
 っていないと言い出した。
  いつもの韓国のやり方で、「約束を放り出して、ごね
 だした」。
  そして、要求をどんどん「せり上げて行った」。
.
1976年2月24日、ユバル・ノア・ハラリ(ヘブライ大学歴史
 学部教授)の言葉:・・
  「人間は、長い時間の中で、目の前にあるものが現実
 なのか、それとも誰かが創ったストーリーなのか、区別
 する能力を失った。
  結果、多くの人が、神や国家や会社という想像上のも
 のに自分を捧(ささ)げて戦争に行き、何百万人という
 人を殺戮した」。
  だから、「目の前にあるものが、現実か虚構なのかを
 区別し、その上で利用する方法を考えよ」。
  そして、「虚構の奴隷になるな、虚構を利用せよ」。
  (参考)1976年2月24日、生まれ。イスラエル人。
      著書「サピエンス全史、文明の構造と人類の
     幸福」「ホモ・デウステクノロジーとサピエン
     スの未来」
      2000年、オックスフォード在住中にヴィパッ
     サナー瞑想を開始し、それが「人生を変えた」
     と語っている。
  (参考)ビパッサナー瞑想:ナーマ(こころのはたら
     き、名〔みょう〕)とルーパ(物質、色〔しき〕)
     を観察することによって、仏教において真理と
     される無常・苦・無我を洞察する瞑想。
.
2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは
 虚偽であると言うことがはっきりした。
  この日付での産経ニュースがある・・以下その抜粋・・
  杉山外務審議官の発言要旨:慰安婦強制連行に関する
 国連女子差別撤廃委員会
  日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治外交問題化し
 た1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する本格的な事実
 関係調査を行った。
  日本政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆ
 る強制連行を確認できるものはなかった。
  慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された
 原因は、昭和58年(1983年)、吉田清治氏(故人)が「
 私の戦争犯罪」という刊行物の中で、自らが日本軍の命
 令で、韓国の済州島で大勢の女性狩りをしたという事実
 を捏造(ねつぞう)して発表したためだった。
  この内容は、朝日新聞社により、事実であるかのよう
 に大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社
 会にも大きな影響を与えた。
  しかし、この書物の内容は、複数の研究者により完全
 に想像の産物だったことが、すでに証明されている。
  朝日新聞も平成26年8月5、6日を含め累次にわた
 り記事を掲載し、事実関係の誤りを認め、正式に読者に
 謝罪した。
  20万人という数字も具体的な裏付けがない。
  朝日新聞は26年8月5日付の記事で、通常の戦時労
 働に動員された女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤っ
 て混同したと自ら認めている。
  なお、「性奴隷」といった表現は事実に反する。
  日韓両政府は、昨年12月28日、ソウルで日韓外相
 会談を行い、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決さ
 れることを確認した。
  両首脳も同日、電話会談を行い、合意を確認し、評価
 した。
  今後、韓国政府が元慰安婦の支援を目的とした財団を
 設立し、日本政府は10億円程度の資金を一括で拠出す
 る。
  現在、両政府はそれぞれ合意内容を誠実に実行に移す
 べく取り組んでいる。
  国際社会は日韓両国の合意を歓迎している。
  先の大戦にかかわる賠償や請求権の問題は、サンフラ
 ンシスコ平和条約、日韓請求権経済協力協定や日中の処
 理の仕方も含むその他の2国間の条約などによって誠実
 に対応してきている。
  条約の当事者間では、個人の請求権の問題を含めて法
 的に解決済みというのは、日本政府の一貫した立場。
.
2019年4月19日、アイヌ新法と言われる「アイヌの人々の誇
 りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関す
 る法律案」が成立した。
  そして、この法律の第一条に・・
  「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であ
 るアイヌの人々の・・」・・と、北海道の先住民族とし
 ている。
  これは、科学的に間違っている。
  北海道には、すでに、日本人の祖先である縄文人が住
 んでいた・・アイヌの人々が北海道に来る以前からであ
 る・・
  アイヌの人々は、13世紀に北海道に渡って来た。
  この歴史的史実は、立証されている。
  そして、日本人の祖先である縄文人は、そのアイヌの
 人々が北海道に来た時よりズーッと以前の「紀元前」か
 ら北海道に住んでいた。
  何故、科学的に間違った法律を成立させたのか?
  大いに疑問が残る・・
  この行動について・・
  「チェチェ思想(主体思想)を信奉している人たちが
 行なっていて、この後、自分たちの国を北海道に作る」
 と説明する人たちが居る・・
  その根拠は・・その事が明確にチェチェ思想の本に、
 そのことが、その様に書いてあるという。
  (参考)チェチェ思想:朝鮮労働党および北朝鮮の指
     導指針とされる思想。
  現在、「中国東北部」と呼ばれる地は、中国の漢民族
 とはまったく関係が無かった。
  この地には、満州人の方々が多く居て、日本は、「満
 州国の建国を助けた」・・しかし、戦後、この地は「中
 国東北部」という名で呼ばされ、中国の地とされてしま
 った。
  そして、気になるのは、今、満州人の方々が、まった
 く居なくなっていて・・(追い払われたのか?殺された
 のか?)・・満州人の方々の影も形も無くなっていると
 いう。
  今、中国の地だとされている「ウイグルの方々の地」
 でも、300万人ものウイグル民族の方々が、強制収容所へ
 入れられている」・・
  中国は、テロ対策だと言っているが・・この様な人権
 無視の行為がなされている。
  国が簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなけれ
 ばよいが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

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